真面目に生きてきて、適当に生きてる人が羨ましかった。
そんな経験はありませんか?
「自分はこんなに頑張っているのに」「あの人たちはなんで?」
そう感じてしまうのであれば、これから楽しむ人生へシフトするチャンスかもしれません。
一生懸命やっているのに結果が出ず、なんでもきっちりやってきたはずなのに、何故だか楽しくない、幸せになれない。
まわりを見渡せば、いい加減で適当な人ほどいつも楽しそうで、ダメだと言われている破天荒さを持っていても、案外そういった人の方が上手くいっていたりしませんか?
努力すること、頑張ることは素晴らしいことですが、その方向性を間違えて、いつまでもそこに執着し続けていては、人生を楽しめません。
なんのために生きているのかをもう一度見つめ直し、生き方を変え、ライフスタイルを変えて行けば、これからは毎日を楽しく生きることが出来るようになるでしょう。
適当に生きるということ
これまで多くのことを頑張って来て、いつも一生懸命にやってきた。
それでも、人生の辛さは変わらず、周囲との関係はいつまでもギスギスしたまま。
もしそうだとすれば、それは真面目すぎた結果かもしれません。
几帳面で真面目であることは素晴らしいことですが、それが「全てにおいて」であるとすれば、少し力を抜いたほうがいいかもしれません。
完璧主義は、関わる人たちは大変ですし、何より自分で疲れる選択をして生きているとも言えます。
こだわってしまう気持ちも理解できますが、そのこだわりは必要な時に発揮すればいいものですので、いつでもどこでも完璧さにこだわるのは、執着でしかありません。
その執着が自分の生き方を苦しめている可能性がありますので、適当に生きる選択が必要かもしれません。
適当な人と真面目な人
適当な人は、やることがいい加減で、時間を守らなかったり、出来ているつもりでもどこか抜けていたり。
真面目な人は、なんでもきっちりとこなし、他者に迷惑がかからないようにいつも気を配り、より高いクオリティを求めていきます。
こうしてみると、どちらも素晴らしい才能を持っているので、どちらがいいということはありません。
しかし、真面目過ぎると、どうでもいいことにこだわって生産性が落ちたり、その完璧主義なところから、楽しさを忘れたりしてしまいがちです。
また、手段が目的としてすり替わりやすいのも、真面目な人で、自分では一生懸命やっているつもりなのに、本線から脱線していることに自分では気づきません。
それとは真逆で、適当な人間は、まあそれなりに出来ていればいいとしか考えていないので、細かいことは気にしません。
だからこそ、他人への関心が薄く、多少の失敗は簡単に許せてしまいます。
この二つの人格を比較した時に、どちらの生き方が楽なのか、と問われると、間違いなく適当が許される生き方だと思います。
世間を見渡してみると、面白いことに、真面目な人ほど苦しむことが多く、いい加減で適当な人ほどいつも楽しそうで、上手くいっていたりします。
適当に生きる人の面白さ
なんでもやることがいい加減で、ルールは守らないし、時間にはいつも遅れる。
面倒だと思ったらすぐに投げ出して、次に面白そうなことを見つけてすぐに始める。
そうかと思えば、飽きてしまってあっさりとまたやめる。
「適当=ダメ」といった認識が強いと、適当でいい加減な人間は「ダメな奴」「社会不適合者」といった評価を受けます。
しかし、真面目な人たちは、正直なところこういった適当な人間を「羨ましい」と思っているはずです。
その大胆で豪快な判断と行動力は魅力的で、いつも楽しそうに生きているその適当な人は、幸せそうに見えるはずです。
失敗ばかりの連続だけど、何も気にせずどんどん挑戦していく姿は、見ていて面白さを感じるものです。
人生を最も楽しんでいるのは、こういった「ダメな奴」「社会不適合者」と呼ばれる適当でいい加減な人たちなのかもしれませんよ?
「適当=ダメ」ではない
適当な人は、他者依存や執着があまりないため、細かいことは気にしません。
真面目な人ほど、依存心が強く、何かに執着しているために、生き方の幅は狭くなります。
適当であることは、こだわりが薄いということを意味し、執着しないことがフットワークを軽くしています。
いい加減であることは、何も不真面目なわけではなく、必要なこととそうでないことの見極めが速く、いつも自分の人生が主軸にあるために、それらの行動が生まれます。
「こんなことをやっていても楽しくない」と判断すると、誰に何を言われても次の行動へとシフトします。
このフットワークの軽さが、自分の人生にとって重要であることを知っているために、適当なところでやめる、こだわりすぎないという人格を作っています。
執着を手放そう
自分が怖れていることを知り、そのことへの執着を手放せば、生き方はどんどん楽になります。
適当に生きることは、とにかく気にしないこと。
細かいことを気にしなければ、他人も自分も許せる心を持てますので、不思議と人は集まってきます。
「それくらいにことは気にするな」と寛大な心を持ち、すぐに次の楽しいことを見つける適当な人は、不思議な魅力を持っているものです。
こだわりが強く、真面目で几帳面な人は、尊敬はされるかもしれませんが、居心地の悪さを感じてしまえば人は離れていきます。
執着を手放すことが、自分の魅力を向上させ、自分も他人も楽な生き方へと導いてくれるのですから、もっと「適当になること」を容認すれば、人生は楽しくなっていくでしょう。
適当に生きて人生を楽しむ方法
真面目に生きることも大切ですが、人生を楽しむことはもっと大切なことです。
幸せになるために、そして、関わる人たちを幸せにするためにも、力を抜くべきところは抜いていきましょう。
適当に生きて人生を楽しむ方法は、いたってシンプルで簡単なものですので、出来ることからやってみて、縛られていた自分の価値観から、自分自身を解放してあげましょう。
・他人からの評価を気にし過ぎない
やりたいことがあっても、「どう思われるか?」が気になっているのであれば、それは無駄に時間を浪費しているかもしれません。
「どう思われるか?」を気にすることは、当たり前のことと思うかもしれませんが、他人からの評価を気にするのは、それも依存と執着です。
嫌われることを怖れ、怒られることを避けていると、人の顔色を伺う行動ばかりになってしまいます。
「どう思われるか?」ではなく、「どうしたいのか?」がとても重要なことです。
誰かに気に入られることをどれだけ頑張っても、それは長続きはしませんし、苦しい展開が待っているだけです。
ありのままの自分でいることを怖れず、他人への依存と執着を手放し、やりたいことをやるべきです。
・見栄とプライドを捨てる
真面目に生きれば生きるほど、適当に生きることを怖れてしまいます。
他者に強要したり、批判したりしてきたことが、自分自身を制限してしまうからです。
これまでに積み上げてきたことが手放せず、見栄とプライドを守るのであれば、適当に生きて人生を楽しむことは難しいかもしれません。
自分自身で創り上げた真面目な人物像が、本当の自分を解放できない理由なのであれば、それらは捨て去る勇気を持たなければいけないでしょう。
「どこに価値を置くか」によって決まりますが、真面目に一生懸命生きても楽しくないと気づいたのであれば、格好つけている自分は捨て去った方が楽になれるかもしれません。
・正しさばかり考えない
「何が正しいのか?」だけを考えて、正解を探し回っているうちに、アクティブな人たちはすでにそれを実行しているか、終えています。
「石橋をたたいて渡る」ということわざがありますが、その橋が安全かどうか、どの橋を渡ればいいのか、チェックに時間をかけてしまい、挙句の果てに橋を渡らない。
橋を叩きすぎて壊してしまうか、気が付いたら日が暮れてしまう。
人生を楽しむことを知っている人は、真面目な人が考えて吟味している間に、橋をさっさと渡っていき、その後ろ姿はすぐに小さくなっていくほど行動力があります。
落ちたところで水に流されるだけと思っていれば、正解など探す必要はないと理解できるでしょう。
正解を探すのをやめて、楽しさだけを追い求めて、すぐに行動してみましょう。
・言い訳をしない
やりたいことがあるのなら、それをすぐにやってみることです。
人生を楽しむためには、「失敗しに行くようなもの」と思っているくらいがちょうど良かったりします。
何がどうなっても、それを覚悟の上と認識していれば、「やらない言い訳」は出てこなくなります。
「お金がない」「時間がない」「あの人が言うから」「怒られるから」
それらは全て、言い訳であって、依存と執着によって縛られていると言えます。
楽しむ人生では、「まあそれは後から何とかなるだろう」という適当さが力となるものです。
・無駄に意味を見出さない
もっと適当になって、楽しい時間を積み重ねていくためには、先に「意味」を見つけようとしないことです。
「なんのために?」「どんな意味があって?」「なぜそれをする?」
そこに明確なものなんて別になくてもいいのです。
「楽しそうだから」「そうしたいから」だけで動機は十分なのです。
やるべきことは確かにあるものですが、ある程度のお金と時間があれば、誰にだってやりちあことをやっていくチャンスはあるはずです。
深く考えることはやめて、少しでも楽しめる人生にするために、あまりこだわりすぎないようにしましょう。
自分だけの人生を楽しもう!
適当に生きることを怖れているのなら、一体自分が何に対して、どうなることに対して怖れているのかを理解していきましょう。
いい加減になることを怖れるのは、執着や依存心が深く関係しているはずです。
そうして、集団の中で目立たないように生きることが、楽で幸せな人生だと感じているのなら、それはそれで正しい選択です。
ただ、やりたいこともやらずに、人生は我慢をして真面目に耐えるべきものだと思っているのなら、それは苦しい生き方かもしれません。
修行を重ねたブッダは、最終的に「意味がなかった」と気づいたことが、悟りだと言われています。
人間は、どうしても強くなろうとして頑張り、変わろうと努力を重ねていきますが、それは「苦しいだけ」ということに気づくためのプロセスです。
もっと適当に生きて、ありのままでいられることを自分が許可すれば、人生はとても楽になります。
生きることは修行ではありますが、それは苦行ではないのです。
楽しむための修行であって、その修行の先に真の幸せを見つけることが出来るものなのです。
「強くなりたい」と誰もが自ら真冬の滝に打たれますが、「寒いだけ」です。
その修行を否定するわけではなく、そのことに気づくことが大切ということです。
適当でいいのです。
一生懸命生きなくてもいいのです。
楽しければそれでいいのです。
自分らしく生きる勇気を持ち、ありのままで価値ある存在だと気づけば、毎日を楽しむことが出来るでしょう。