自分への挑戦で毎日を楽しむ

いつからか、私は良い意味で「他人」にあまり関心がなくなっていき、自分へ焦点をあてるようになりました。

これは、どちらが先なのかわかりませんが、自分へと意識を向けると、「他人は気にならない」という楽なライフスタイルへと変貌できます。

この「自分への挑戦」は、毎日のように行っているものですが、別に出来ても出来なくても、50点でも120点でも、全て自己採点で自己満足で完結できるため、誰にも知られずに楽しむことが出来ます。

誰かにおススメしょうとか、そういったことではありませんが、これだけで毎日が「楽しい」と思えるのですから、自分の中で、適当に「今日の目標」みたいなものを作って、「やった、できた!」と喜んでみたり、出来なくても「結局口だけw」みたいな終わり方だってあります。

酷い時には、そのことすら忘れていたり、全く真逆のことをしている日だってあります。

昔は、上手くいかなかったり、失敗したりすると、過剰に落ち込んでみたり、自分を責めたり、誰かのせいにしたりということの繰り返しでしたが、それも今では「自分の中での楽しみ」として、毎日が終わっていきます。

目標以上に達成できれば、素直に嬉しいですし、出来なかったら笑いでまた次回、となるだけの、一人だけのゲームです。

どんな目標を立ててきたか

始めは、難しいことや、大きなことをやろうとしていたりもしましたが、無駄に傷ついたり、嫌な思いをしたくないので、自分でかなりハードルを下げて目標を立てるようにしています。

越えられるかどうか微妙なラインの目標を作って、覚えている限り、思い出せるタイミングで実践します。

「忘れる」ということは、それまでのものであって、別に自分を責める必要も、落ち込む必要もありません。

では、どんな目標を立てているのかというと、以下のようなものです。

・先に笑顔であいさつをする

・「ありがとう」と言ってみる

・すぐやる

・出来るだけ歩く

・九時までには寝る

・スマホを見る時間を減らす

・人を褒める

・玄関を掃除する

・靴を揃える

程度のものです。

他にも、色々と細かいものはあるのですが、適当に決めてチャレンジしてみます。

「インスタのフォロワーを増やそう」とか、「スポーツをやってみたい」などといった目標は色々とあるのですが、どの目標を目指すにしても、一日で成せるものはあまりないので、日々の小さな目標の集合体が、面白い結果を生むのかもしれないと思い、「1日自分チャレンジ」みたいなことが、自分一人の中で始まりました。

「ブログを毎日更新する」とか、「とりあえず本を読んで見る」など、その先の目的がないものもやってみたこともあります。

私は、そこに特に「意味」などを自分が持たなければ、意外とモチベーションは維持出来たりしています。

暇が大きな財産となる気がする

結局のところ、「暇な時間」が結構あるのかもしれないと、私自身は感じています。

その、一見すると「無駄」に思える時間の中から、「やってみようかな」が生まれ、「そのためには?」と考え、小さな「目標」みたいなものが決定されます。

そして、その出来そうな課題をクリアしていくことが、自分の「楽しみ」、「趣味」のようなものになっていくことで、いつか自信が持てるようになり、自分だけの財産になるのではないかなと、一人でそこに落ち着きました。

他人から見ると「くだらない」ように思えるそのチャレンジを実行する日々が始まり、そこから何が起こったのかと言えば、自分が嫌いだった、本当はやめたかったような「悪習慣」のようなものが、少しずつ減り、小さくなっていくのを感じました。

この自分チャレンジを実践することは、意外と簡単なことで、「今日1日は!」と決めさえすれば、グッとハードルが下がり、集中することが出来ます。

「今日」という日は、「今日」しかないので、「今日は・・・」というテーマを作り続ければ、苦しくはならないものです。

さらに細分化すると、「今は・・・」にまで意識を集中できるようになるので、とても多くのことを考えたり、高い壁を越えようと必死で頑張っていた頃に比べれば、辛さを感じない、むしろ楽しくなってくるという不思議な感覚になれました。

必ず、妨害してくる人、避難する人たちは現れるのですが、私自身は特に「意味」を持ってはいませんし、それはあくまで「自分の目標を達成するための行い」ですので、他者に対する思いは抱かず、さらにその関心も薄れていきました。

そうした習慣を積み上げることによって、最も大きな財産となっているのは「一人で楽しむ」ということそのものなのかもしれません。

失敗のほうが圧倒的に多い

どうしても、人は成功することだけに価値を傾けがちですが、失敗すること、達成できないことのほうが、圧倒的に多いことが普通です。

「人は完璧ではない」という姿が、完全体なのだと私は思うようになりました。

そこにだけ価値を見出そうとすると、それ以外は無価値、低価値という概念が自分の中に生まれ、それが失敗した時に自分の心に大きなダメージをを与えます。

「何がなんでも成功しなきゃいけない」と思いすぎると、自分で自分を傷つけているという理論がそこに成り立ち、「どっちでもいいじゃん別に」という認識を持てば、そこに許しの理論が成り立って、それが自分の救いとなります。

過去の自分を思い出せば、狭き門へと向かい、それが達成できなかった時に、ひどく落ち込み、傷つくのが当たり前でした。

そこから、様々な時間を重ねていき、もっと大きな枠組みで物事見た時に、自分が「価値あるもの」として見ていたものが、実はそうでもないのかもしれない、と気づきました。

考えてみれば、「狭い所をわざわざ通ろうとはしない」ほうが楽で、頑張らなくてもいい道を選んだほうがいいに決まっている。

そんな当たり前のことが、私はわからずに、高い所を目指し、希少価値を求め、少数派へ向かうことばかりに目を向けていました。

もちろん、いつも向上しようと頑張っていた日々、苦しみながら失敗ばかりを重ねてきた経験は、今では大きな「価値のあるもの」となりました。

失敗することで、人に寛容になれ、優しくなれ、許すことを覚え、諦める勇気を持てました。

夢や希望を捨てる、という意味ではなくて、「高いことを望む」ということを手放すことによって、自分で生み出していた苦しみから、自分で脱出することに成功できたかなと感じています。

それなりに楽しく生きる

高いことを望むと、身近にいる誰かを許せなくなったりもします。

これは、すぐに自分へと返ってくるもので、その「理想とのギャップ」が自分を苦しめてしまいます。

「向上心」による努力は、自分を日々成長させてくれはしますが、その「頑張り」が行き過ぎてしまうと、自分は苦しくなり、身近にいる誰かを傷つけ、さらに大きくなって自分自身が深く傷つくのだなと思う経験が、沢山ありました。

一時期、そんな過去の自分も許せなくて、さらに苦しみ続ける日々を送ったりもしました。

ですが、今では「それも含めて自分」であり、「それも含めた人生」と考えることが出来るようになり、「自分を嫌う」ということは、全くないわけではありませんが、とても小さくなりました。

当時は、ここまで回復できるとは思ってはいませんでしたが、全ては経験がそこに導いてくれるのかもしれません。

また、私と関わってくれた全ての人たちが、今の私を形づくり、支えてくれていることも感じます。

日々、思うことは、「それなりに楽しく生きる」ということだけです。

全ては自分次第であって、出来る限り起こり得る全ての出来事を、「楽しむ」というスタンスで受け入れていけたらな、と思っています。

自分チャレンジはゲーム感覚

自分に大きな試練を課せてしまい、失敗は絶対に許されない、と力を入れすぎてしまうと、頑張ることが苦しい上に、恐怖や不安が大きくなり、結果に対しても大きく心を揺さぶられてしまいます。

そうならないためにも、自分チャレンジの目標設定は、実に「くだらない」程度のものとしておいて、適当に発生していくミッションをクリアしていくゲーム感覚でいれば、気楽に挑めます。

毎日立てる目標は、ただ思いつくことだけにして、それが前日の失敗による課題であったり、これからやっていこうと思うことへの一歩だったりと、様々な形をとります。

例え、それが失敗に終わって、散々な結果だったとしても、別に命をとられるわけでもなく、ただ一人で「ダメかw」と意気消沈する程度です。

次に再び、「だったらどうすれば?」といった角度から目標を再設定するのもいいですし、全く別のクリアできそうな目標にするのもいいですし、まあそもそも一人で遊んでいるゲームですから、何だっていいわけです。

何をやったとしても、周囲の人たちは賛否両論あるわけであって、人の失敗を笑ったり、批判したりし続けている人たちは、いずれ自分が苦しくなるだけですので、放っておきます。

もちろん、止めようとしていた人たちが、結果的に、ありがたいものであったにも関わらず、振り切って行って、痛い思いをしたことも沢山あります。

ですが、いずれにしても、自分の中の「目標」で遊んでいくために、そのチャレンジをゲーム化するのが一番の楽しみ方だなと、私は見出しました。

誰かが興味を持つかどうかは不明ですが、私の物語の歴史として、自分チャレンジの軌跡を残していこうと思います。

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