意識するべきは自分の感じている世界

人類の数だけ、世界は存在しています。

共通することは、地球という物質世界の現象の中で「生きている」ということのみです。

共同生活をする上で、ある程度の規範やルールが用いられ、文明は発達しましたが、その弊害も現れることも事実です。

意識するべきことは、「何が正しいか」を議論したり、争ったりすることではなく、自分が「何をどのように感じているか」のみです。

私たちは、同じ条件の中で生活を送っている、人間という生物です。

共通認識はあっても、感じている世界というのは、完全に一致させることは出来ません。

ある程度のところまで、互いに理解しあうために、言語があり、文字や数式があり、名前がつけられたり、概念として定義したりもしています。

ですが、やはり、どこまで突き詰めても、その「生きている世界」というのは、その人にしか感じられないものなのです。

他者との関係性から気づくべきこと

多くの人たちが共存していくために、互いに助け合い、愛を分け合って生きるほうが、より幸せで平和な世界が築けます。

そのことは、誰もがわかっているはずなのに、どうしてそれが可能にならないのでしょうか?

「怒り」「憎しみ」「怨み」などの感情が、なぜ生まれ、傷つけ合うのでしょうか?

人は、それぞれ「自分の世界」の中で生きることしか出来ません。

ただ、三次元の物質的空間を共有しているのみです。

まだ、文明が乏しく、大自然の中で人の営みが行われていた頃。

「私は今日は、こんなに木の実を採ったから、みんなでお腹いっぱい食べられる」

「オレは、海で沢山の魚を捕まえたから、みんなで栄養を養える」

豊かな世界で、十分に分け合っている世界では、人々はいつも平和に幸せに暮らします。

「頑張って働いたから、会社で昇進して、沢山の報酬をもらえたぞ」

「これで、愛する家族が喜ぶものを買える」

これに対し、「俺のほうがやってるのに、なんであいつがいい思いをするんだ」という感情が、なぜ生まれるのでしょうか?

その感情がエスカレートしていくと、「許せない」「邪魔してやる」「奪ってやる」と発展していきます。

それぞれの世界で、「平等な世界で生きる」という価値観と、「この世は不平等だ」という価値観が違っています。

それも、仕方のないことです。

ですが、分岐点はいくらでもあるもので、「あの人はすごいな、俺も頑張ろう」という世界に生きれば、素晴らしい世界を感じることが可能になります。

結果として、自分の生きている世界では、そのようが現実が次々と起こります。

気づくべきことは、「誰が何をした」「それが善いか悪いか」ではありません。

それに対し、自分が何を感じているか、世界で起こる現象をどのように感じているのかということです。

世界の創造主

自分の世界の創造主は、いつでも自分自身です。

自分を取り巻く環境、外側で起こる現象に対し、自分がどんな世界を映し出しているのかが、最も重要なことです。

他者を変えよう、裁きを与えよう、報復しようとする行動は、あなたを裁きと復讐の世界へと引きずり込みます。

ただ、世界で起こる現象を見る、感じるだけで十分です。

「すごいな」「楽しそうだな」

と感じさえしていれば、とても素晴らしく楽しい世界が広がります。

意識すべきことは、善悪や正しさや間違いではありません。

それをどのように自分が感じているのかということにフォーカスすべきです。

そこにある感情が、あなたの真の答えであって、その思いが世界を創り出しています。

いつでもどこでも、自分の世界の創造主は自分自身です。

自分の人生を生きる

他者との関係が、いつも頭を悩ませて、物事を複雑にしてしまいます。

ですが、他人の価値観で生きて、責任を外側へと追いやっている以上は、自分の人生を生きることは出来ません。

幸せな人生とは、自分の人生を生きて、自分だけの美しい世界を創造することです。

自分が不幸なのはあの人のせい、そういった奴らがいるから世の中おかしくなる。

わずかでもそういった思いを心に抱えているのなら、自分の人生を生きているとは言えません。

自分以外の誰かに責任を押し付けることは、自分の幸せの条件を他人へ明け渡しているのと同じです。

不幸の種を、いつも他人の中に探そうとする人は、永遠に他者に振り回され続けることでしょう。

幸福の種を、いつも心に生み出せる人は、いつまでも幸せに生きることが出来るでしょう。

全ては意識から始まり、それが自分の世界を創造します。

意識の中に、幸せを見つけることが出来れば、世界は光り輝き始めます。

自分の人生を生きて、自分だけの物語を楽しみましょう。

その可能性は、無限大に広がっています。

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