人との間で起こっていることの真実

人との関係が、人生のほぼ全てです。

これが上手くいかなくなると、何もかもがカオスとなっていきます。

この歪みの解消をするためには、人との間で、自分の心の中で何が起こっているのかを知る必要があります。

場合によっては、少し心にダメージを受けてしまうことがあるのでご注意下さい。

今、辛すぎて苦しい場合は、読むのは控えて休むこと、楽しいことをやるのを優先することをおススメします。

ここでは、人の心理と人との関係について、少し衝撃的な真実を記します。

何かを変えたい、少しでもより良い人生へとシフトしたいのなら、読み進めてみて下さい。

途中で辛くなったら、素直に離脱して下さいね。

外側と内側は完全に鏡

外側には、自分の内面がそっくりそのまま現れちゃうんです。

これは、否定のしようがない完全な事実だから、受け入れるしかないんですよね。

これが苦しいところ。

トラブルが起こる時ってのは、必ず被害者と加害者が存在していますね。

これ、一見すると一方的に見えるんですが、実はどちらも同じなんです。

違う意味でも鏡ってのは作用してて、したことをされるんです。

それも違う方向から。

方向は違うけども、外側からってのは同じですね。

外に出したものが、自分へと返ってくるんです。

でね、それが何倍にもなるって話もあるのだけれど、されたほうはそう感じるって話で、してる方はあまりそうは思っていないってこと。

最初の、外側と内側が鏡って話に戻るけど、心にあるものがそっくりそのまま実体化しているような感じね。

その事実は、自分しか知らないんです。

それを、相手のせいにしてるだけなんです。

だからね、「やられた!」と騒いでる人ってのは、別のところでやってるか、もしくはそういう思いを心に秘めてるってこと。

悪口言われる、ひどいことされるって状態にあるのは、相手をバカにしていたり、憎んでいたりすることの反映ね。

それか単純に、いつもやってることかのどちらか。

裁くと大変なことになる

それを認めて被害を受け続けることに耐えてる人も中にはいるから、被害者を責めてもいけない。

被害者は、ひどく心が弱っている場合もあるから、単純に優しく励ましてあげて、耐えられるように支えてあげるべきなんです。

ただね、問題となるのは元気な被害者。

「やられた!」

「大変なんだ!」

「自分が一番辛いんだ!」

それもね、気持ちはわかるのだけどそれだけの元気があると、まわりからは「まだやってるのか」としか見えないんだ。

それにさ、それを言い続けることが、どれだけの攻撃になっているか気づいていないんだよね。

被害者を主張することは、とてつもない凶器となるんだ。

一番やったらいけないことが、被害をキッカケにアクションを起こすこと。

これをやっちゃうととんでもないことになるのですわ。

訴えたり、裁いたりすると、もう一生償えない十字架を被害者側は背負うことになっちゃうからね。

裁きを加えると、加害者側はその裁きによって報われるから、それで終わるわけ。

けどね、裁いた側、被害者側ってのは、相手に罪を償わせると同時に、一生償えないものを持たされるわけよ。

これが、歎異抄にある「悪人ほど救われる」ってことかな。

だから、辛いけど、苦しいけど、耐えられるなら耐えて、もうダメだなと思ったら逃げよう。

そんで、逃げてから、休んでから、心が回復してから自分の罪を反省しよう。

被害者も加害者もなくて、どっちも悪くはないんだからね。

ただ、互いの業(カルマ)を浄化してるだけだから、どちらかが追い打ちをかけたり、まわりがとやかく言ったりはしちゃだめなんだ。

それでも人として

こういうことを書くと、やられているのに見捨てる、被害者が一番つらい、と言われるのはわかってる。

でもね、一度どちらの立場も味わうと、全てが理解できるようになるよ。

一方的に誰かを攻撃して、追い詰めるような行為は絶対にあってはならないこと。

それが複数によって、一人を責めるようなものなら、絶対にいけないこと。

これをひっくり返したらわかるんだけど、被害に遭いましたって手を挙げて、誰かを悪者にする行為って、まさにそれに当たることなのよ。

それに気付けるかどうかだと思うんだ。

一番辛いのは被害者なのはわかってる。

私もかなりひどいいじめにあって、命を絶とうとしたこともある。

最後の選択は、自分の人生を終わらせるか、相手の人生を終わらせるかの二択になっちゃうんだ。

けどさ、最終的にはそんなことできないって、貝のようになった。

その先に見えたのは、暗闇に一本の光が射しこんできて、その光の中にいた存在は、自分だった。

気づいたんだ。

幸せになるために、悪口を言ってはいけないってメソッドは誰でも知ってるはず。

自分が言わなくなったら、言われなくなる。

この法則の事実は、実際には言われなくなるんじゃなくて、同じ言葉、同じ行動という現実は変わっていないのに、それが気にならなくなるってだけ。

そういった心理作用があるってこと。

それを試すと実際にそうだから驚いた。

けどその先にも新たな答えが待っていて、人との関係はそのように出来ているとするならば、「やられた」と言っている被害者は・・・ってことになるんだよ。

先にも書いた通り、それを知っていて受け入れて、耐え続けている人はそれはそれで素晴らしいことだからいいんだ。

一生懸命頑張って、たまに悪口言いながらでも直そうとしてるならいいんだ。

だけど、ずっと被害者を訴えてるってことは、その訴えそのものがそうだってことか、心の中で抱えているか、どこかでずっと同じことしてるってことなんだ。

鏡っていうのは、とても受け入れがたい真実だったけど、受け入れるしかないもので、そこからなんとか生き延びることが出来たのなら、あとは大丈夫だと思う。

温かく見守ろう

被害者も加害者も、どちらも内面的には全く同じなんだ。

どちらかというと、被害者のほうが罪を償おうとしてるから一歩リードだけど、仕返しみたいなことすると、また一からやり直して。

それと同じように、被害者が償ってる時に、さらに加害者側から追い打ちをかけるのも違うよね。

それをやっちゃうと、自分もまきこまれてしまうよ。

大切なことは、どちらもが辛い立場なのだから、周りで見ているみんなが、どちらかに加勢するでもなく、見て見ぬ振りをするでもなく、二人を温かく見守ってあげること。

そして、どちらも壊れてしまわないように支えてあげて、助けてあげること。

本当は、やったやられたなんてなくて、ただどちらも辛いだけ、寂しいだけなんだ。

見てる暇があったら、そのやりとりの悪口を言う暇があったら、助けてあげようよ。

もう、その辛い現実をどうにかできるのは、周りで見ている余裕のある人たちだけなんだよ。

被害者とか加害者とか、そんなの関係なくて、当人同士のただのケンカでしかないんだから、止めてあげればいいじゃないの。

それが、一番の平和的な解決ってことだよ。

やったほうをつるし上げて、「こいつが悪人です」なんて世の中は、そんな悲しい世の中はあってはダメなんだ。

みんなが仲良く、楽しく幸せに生きられる社会を、みんなで作っていこうよ。

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